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組合員活動(活動レポート)

「原爆被爆者の体験を聴く会」を開催しました(3月28日、多治見支所エリア委員会)

【2016.04.04 更新】

岐阜県原爆被爆者の会(岐朋会)会長の梅岡昭生さんをお招きして、ヒロシマに原爆が投下された当時の様子等をうかがいました。

被爆体験の前に、何故、日本が戦争への道を進んで行ったのか、梅岡さんが作られた年表を基に分かりやすくお話ししていただきました。

<梅岡さんのお話より>
◆爆心地より3km、16歳で被爆。原爆は高度8000mから投下され、地上580mで爆発。爆心地から半径1kmでは5万人の市民が即死、5000人は吹き飛ばされ、高熱に焼かれ跡形もない状況。
◆梅岡さん自身も爆風でガラスの破片を身体に27箇所受け、母親に抜いてもらったが、頭・首の2個は危険なため今も摘出できずにそのままの状態。しばらくは痛みで首も回らない状態が続いた。
◆16時頃に真っ黒い雨が降り、その後も真っ暗で異様な空だった。
◆当時、学徒動員として造船所で貨物輸送船を作っていた。工場は24時間のフル稼働。通常は20〜25㎜の鉄板を二重にして船底を作るが、当時は10㎜の鉄板一枚で作られていた。魚雷を受ければ即沈没…という船だった。
◆放射能を浴び、汚染された野菜等を食べ、白血球が2500個までに減ってしまい。痩せて骨と皮だけになってしまった。その後、原爆手帳を受け、医者よりしいたけ等きのこ類を食べるよう勧められた。
◆卒業後、大手製菓会社に就職し、しいたけの菌の培養の仕事に携わり、以来、医者に勧められたとおりしいたけ等のきのこを摂り、今も健康でいられるのはそのおかげと思っている。
◆現在、平和のありがたさをみな感じている。贅沢しないよう、腹八分目、よく寝て、運動しきのこや海草、そして野菜を食べましょう。
◆一度、国が戦争への道を進み始めれば、情報や経済は統制され、国民はどんどんそれに巻き込まれていってしまいます。今、日本では平和を脅かす様々な法案等が検討されています。国民一人ひとりがしいかり見極め「NO」と言える日本をみなさんでつくっていってください。戦争をしてはなりません。

梅岡さんのお話の後、「2015ピースアクションinヒロシマ」に参加された、前多治見支所職員の中島布貴さんの報告もうかがいました。また、梅岡さん所有の原爆投下後の広島の街を撮影した写真等も展示していただきました。